登入消毒液が完成したのは、ダリウスが去ってから十日後のことだった。
材料は蒸留した酢と、特定の樹皮を煮出した液を合わせたものだ。酢の蒸留は最初の難関だった。この世界にも酢は存在するが、濃度が低く、薬として使えるレベルには程遠い。陶器の蒸留器を自作するのに三日かかり、蒸留の条件を探るのにさらに五日かかった。
完成品を小瓶に入れて光に透かした。無色に近い、わずかに黄みがかった液体。匂いは鋭い。
合格。
エリナは小瓶に木の栓をして、棚に並べた。傷口に直接使える消毒液、石鹸では届かない深い部分の洗浄に使えるもの。クラウスの時のような感染症例が、これで一段階早く対処できるようになる。
それから少し間を置いて、別のことを考えた。レインに見せると言った。
でも場所がわからない。あの少年がいつまたルシェムに来るかも、来るかどうかも、わからない。 エリナは栓をもう一度確認して、棚から目を離した。 来たら見せる。それだけだ。レインが来たのは、その翌日だった。
またしても、雨だった。今度は朝から降っていた。霧のような細かい雨が、町全体を灰色に包んでいた。エリナは薬草の仕分け作業を台所でしていて、戸口を叩く音を聞いた。
マリオかナンシーだろうと思いながら開けた。 違った。 旅装束の少年が立っていた。前回より少し汚れている。靴底の麻紐は、新しいものに替わっていた。「……修理したんだ」
エリナが言った。自分でも、開口一番それを言うとは思っていなかった。
レインが一瞬だけ目を細めた。「した」
「よかった。入って」台所に通した。狭い部屋だ。棚に薬草が並び、壁に分類図が貼られ、隅に帳簿が積んである。貴族の屋敷の応接間とは正反対の空間だ。
レインは部屋を一度見回してから、何も言わずに椅子に座った。この人は余計なことを言わない、とエリナは再確認した。狭い部屋だとか、貧しいとか、そういうことを顔に出さない。ただ、目だけが部屋の中をきちんと観察していた。エリナはお湯を沸かしながら言った。
「消毒液、できた」
「見せてくれ」 「お湯が沸いてから」 「なぜ」 「使い方を説明しながら見せた方が早いから。飲み物を出す間に準備する」レインが黙った。それを肯定と受け取って、エリナは作業を続けた。
乾燥させたカモミール系の花を湯呑みに入れて、お湯を注ぐ。香草茶だ。砂糖はないが、花の自然な甘みがある。レインの前に置いた。「飲める?」
「ありがとう」短いが、本物の言葉だとわかった。お世辞の質感がない。
エリナは棚から消毒液の小瓶を取り出して、テーブルに置いた。「これ。傷口の洗浄に使う液体。石鹸で洗えない深い傷や、処置の前に使う」
レインが小瓶を手に取った。光に透かして、栓を外して匂いを嗅いだ。眉がわずかに動いた。
「強い匂いだ」
「酢を蒸留したものが入ってるから。匂いは強いけど、傷に使っても組織を大きく傷めない程度の濃度に調整してある」 「どうやって確認した?」 「ルナという子の手に少量つけて、翌日の状態を観察した。赤みも腫れもなかった」 「ルナ?」 「薬草を集めてくれている子。孤児で、私より薬草の知識が細かい」レインが小瓶を戻した。
「実際に傷に使ったことは」
「一例ある。先月、荷運びの男性が足に深い傷を作って三日後に発熱した。傷口を洗浄してこの液体で処置して、薬草の飲み薬を併用したら五日で回復した」 「魔法の治癒なしで」 「なしで」レインがしばらくテーブルを見ていた。それから顔を上げた。
「石鹸を学院に持ち帰って、魔法師に分析させた」
「わかった?」 「界面活性作用、という言葉が出た。魔法師たちは、この原理を魔法で再現できないか議論している」エリナはそれを聞いて、少し考えた。
「魔法で再現できたとしても、材料と手順がわかれば誰でも作れる石鹸の方が広く使える。魔法師がいない村にも届く」
「そう言ったら、一人の魔法師が怒った」 「魔法の価値を否定したと思ったの?」 「そう取る人間もいる」エリナは香草茶を一口飲んだ。
「否定したいわけじゃない。魔法がある人間には魔法を使えばいい。ない人間には別の方法がある。それだけのことだと思ってる」
レインが少し目を細めた。
「合理的だ」
「前にも言ったね、それ」 「同じことを思うから、同じことを言う」エリナはそこで少し止まった。この人の言葉は無駄がない。だから逆に、言われた言葉の重さが妙に残る。
雨が少し強くなった。屋根を打つ音が大きくなる。 レインが窓の方を見た。「今日はここで足止めになりそうだ」
「泊まる場所は?」 「宿を探すつもりだった」 「この雨では難しい。うちに泊まってもいい。母に話す」レインが少し驚いた顔をした。珍しい表情だ。
「いいのか」
「狭いけど、雨の中をうろうろさせるよりいい。合理的でしょう」レインがまた、口の端だけで笑った。
「……いつもそうやって全部、合理的で片付けるのか」
「合理的じゃないことの方が少ない」 「少ないが、ある、ということか」 エリナは少し止まった。「……何が言いたいの」
「別に」レインが香草茶を飲んだ。それ以上は言わなかった。エリナは何かを言い返そうとして、うまい言葉が見つからなかった。それも珍しいことだった。
夕方、セレーナが仕事から戻ってきた。 台所にレインが座っているのを見て、一瞬止まったが、すぐに柔らかい顔になった。「お友達?」
「知り合い」エリナが答えた。「王立魔法学院の生徒。今日は宿が取れないから泊めたいんだけど」セレーナがレインを見た。レインが立ち上がって、きちんと頭を下げた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。レイン・ソレイユと申します」
セレーナが少し目を見開いた。礼儀正しい、という顔だ。
「もちろんよ。狭くて申し訳ないけど」
「十分です。ありがとうございます」夕食はエリナが作った。豆のスープとパン、それから薬草を使った簡単なおかず。材料は多くないが、組み合わせと火加減で補う。
レインが一口食べて、動きを止めた。
「……美味しい」
「当たり前のことを言う」とエリナが返した。 セレーナが小さく笑った。母がそんなふうに笑うのを、エリナは久しぶりに見た気がした。 夜、母が寝てから、エリナとレインは台所で向かい合っていた。 ランプの光だけがある。外はまだ雨が続いていた。 エリナは切り出した。「一つ聞いていい」
「どうぞ」 「クロヴェル家について、何か知ってることはある」レインの目が少し変わった。鋭くなった、というより、集中した感じだ。
「クロヴェルがどうかした」
「先週、息子のダリウスが来た。支援を申し出るという名目で」 「断ったか」 「体よく断った。でも次は別の手を使ってくる気がする。だから事前に知っておきたい」レインがしばらく黙った。ランプの火が揺れた。
「クロヴェル侯爵は、魔法省の副長官を兼任している。宮廷での発言力は大きい。ただ——」
レインが少し間を置いた。「最近、国王陛下との距離が開いていると学院でも言われている。陛下が平民出身の魔法師を重用し始めたことを、クロヴェルは快く思っていない」
「それは知らなかった」 「表には出ない話だ。ダリウス本人は——」レインが少し考えるように目を伏せた。
「学院での評判は悪くない。父親のやり方とは少し違うと言う者もいる。ただ、父親に逆らえるかどうかは別の話だ」
エリナはその情報を頭に入れた。
国王陛下とクロヴェルの距離が開いている。平民出身の魔法師を重用している。
これは使える情報だ。「ありがとう」
「礼はいい」とレインが言った。 「ただ——」少し止まった。続きを選んでいる感じだ。
「無理をするな」
エリナが顔を上げた。
「七歳で、一人で、クロヴェル家を相手にしようとしている」
レインの声は平坦だった。でも平坦さの下に、何かがあった。
「仲間がいても、限界がある。無理をして潰れるのは合理的じゃない」
エリナはしばらくレインの顔を見た。
この人は今、心配をしている。そういう顔だ。でも心配という言葉を使わない。合理的じゃない、という言葉に変換して言った。 なぜかそれが、ひどく自分に似ていると思った。「わかってる」とエリナは答えた。
「無理はしない。でも止まりもしない」
「それを無理という」 「進む速さを調整するだけ。止まることとは違う」レインが少し黙ってから、言った。
「……頑固だな」
「よく言われる」 「誰に」 「マリオに」 「そうか」また沈黙があった。でも不快じゃない。雨の音が続く。ランプが揺れる。
エリナはふと思った。この静かな時間が、妙に落ち着くのはなぜだろう。 考えて、すぐに結論を出した。 余計なことを言わない人間と一緒にいると、自分も余計なことを考えなくて済むから。効率がいい。 それだけのことだ。 それだけのことだ、とエリナは二度、心の中で繰り返した。翌朝、雨が上がった。
レインは朝食を食べてから立つ準備をした。荷物は少ない。動作に無駄がない。
戸口で振り返った。「消毒液、五個もらえるか」
「四十ルシェ」 「払う」エリナは棚から小瓶を五個取り出して、布に包んだ。レインが銀貨を置いた。数を確認せずに受け取った。この人が誤魔化すとは思えなかった。
レインが布包みを鞄に入れた。それから少し間があった。「また来る」
前回と同じ言葉だった。でも今回は少し違う言い方だった。前回は「来るかもしれない」だった。今回は「来る」だった。
エリナはその違いに気づいたが、特に何も言わなかった。「消毒液の次は何を作る」
「膏薬。それから、もう少し濃度の高い解熱薬」 「見せてくれ」 「できたら売る」 「買う」それだけ言って、レインは歩き出した。
今度は振り返らなかった。 エリナは戸口に立ったまま、その背中が路地の角を曲がって見えなくなるまで見ていた。 なぜ見ていたのか。 自問して、答えが出なかった。 珍しいことだった。エリナはたいていのことに、すぐ答えが出る。でも今朝の自分の行動には、合理的な説明がつかなかった。……まあいい。
結論を保留にして、台所に戻った。膏薬の材料を並べながら、頭の中で今日の作業を組み立て始めた。
でも不思議と、作業の端っこに、路地の角の映像が残っていた。 薄汚れた旅装束と、小さな革鞄と、新しい麻紐で直した靴底。 エリナはそれを頭から追い出そうとして、追い出せなかった。 効率が悪い。 そう思いながら、それでも少し、口の端が上がっていた。四月になった。 春が本格的になった。 市場に花と野菜が並んだ。 フィオナの庭の薬草が、緑色を深くした。 農地の薬草が、二年目の芽を出し始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 春の空気が入ってきた。 今年も、春が来た。 でも、今年の四月は、動きが重なった。 四月の最初の週に、フィオナが地方の学校に向けて出発した。 三カ所を順番に回る予定だった。 一カ所に、二日から三日滞在する。 全部で二週間ほどの旅だった。 出発の朝、フィオナが長屋に来た。「行ってくる」フィオナが言った。「行ってらっしゃい」エリナが言った。「気をつけて」「気をつける」フィオナが言った。「何かあれば、手紙を出す」「待っています」「ルシェムが、待っていてくれる」フィオナが言った。「それが、わかっているから、どこにでも行ける」「帰ってくる場所があるから、遠くに行ける」エリナが言った。「あなたの言葉だ」フィオナが笑った。「でも、今日は自分の言葉として使う」「そうしてください」 マリオが見送りに来た。「フィオナさん、行ってらっしゃい」マリオが言った。「ありがとう、マリオ」フィオナが言った。「ルシェムは、俺が守っておく」マリオが言った。「マリオが守っているなら、安心だ」フィオナが笑った。「いつも、そう言ってくれるから、どこにでも行ける」「それが俺の仕事だから」マリオが言った。 ルナが来た。「庭の薬草、水をやっておく」ルナが静かに言った。「ありがとう、ルナ」フィオナが言った。「帰ってきた時に、育っていると嬉しい」「育てておく」ルナが頷いた。「植物は、帰ってくる人を待っている」「その言葉が、好きだ」フィオナが言った。 フィオナの馬が動き出した。 エリナ、マリオ、ルナが見送
二月になった。 冬がまだ続いていた。 でも、日が少しずつ長くなってきた。 夕方、作業場の前に立つと、去年の今頃より少しだけ長く外が明るかった。 エリナは、その変化に気づいていた。 春が、近づいている。 毎年、同じように春が来た。 でも、毎年少し違う春だった。 今年の春は、父の名誉が回復された後の最初の春だった。 二月の初めに、レインから手紙が来た。エリナへ「届いた」という言葉を受け取った。「続けてきたことが、今日の形になった」という言葉も。俺も、同じことを感じた。遠くにいたが、届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした。師匠に話したら、「そうか」と言った。それだけだったが、師匠の「そうか」は、受け取った、という意味だとわかっている。春になったら、行く。今年の春のルシェムを見たい。それと、個人的なことを一つ。師匠が今年の夏に退く方向で、学院と話し合いが進んでいる。師匠が退いた後、俺がどうするかを、少し考えている。まだ言葉にできない部分がある。でも、考えていることは確かだ。春に、話せると思う。レイン エリナはレインの手紙を読んで、「春に、話せると思う」という一行を少しだけ見た。 言葉にできない部分がある。でも、考えている。 以前、レインが同じようなことを言った時、大事なことが言葉になる前だった。 春に来る。そして、話す。『レインへ「届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした」という言葉を受け取りました。遠くにいても、繋がっているということですね。それが、続けてきたことの形だと思います。師匠のことを受け取りました。師匠が退いた後のことを、春に話してください。聞きます。春のルシェムを、見てほしいと思っています。今年の春は、少し違う春かもしれません。父の名誉が回復された後の最初の春だから。待っています。
一月になった。 新しい年が来た。 ルシェムの元旦は、今年も静かだった。 市場が休んだ。道を歩く人が少なかった。 エリナは朝、台所の窓を開けた。 冷たい空気が入ってきた。 霜が降りていた。 今年も、同じ朝から始まった。 元旦の朝、台所に行くと、蜂蜜のパンが置いてあった。 八年連続だった。「また蜂蜜のパンですね」エリナが言った。「毎年同じの方がいい」セレーナが言った。「始まりには、同じものがいい」「来年も、同じですか」「来年も同じにする」セレーナが穏やかに言った。「それが、続けることだから」 エリナは蜂蜜のパンを食べた。 甘かった。 八年間、変わらない甘さだった。 変わらない甘さが、続いてきたことの味だった。 マリオが来た。「おめでとう、新年だな」「おめでとうございます」「毎年言っているな」マリオが笑った。「毎年言ってくれますね」「来年も言う」「わかっています」 マリオが少しだけ、エリナを見た。「今年は、どんな年になると思う」「わかりません」エリナが言った。「でも、続けることは変わりません」「それだけで十分だな」マリオが頷いた。「続ければ、何かになる。それが、これまでそうだったから」「そうですね」「お前と一緒にいて、一番覚えた言葉だ」マリオが言った。「急がない。でも、止まらない」「マリオが、その言葉を使えるようになりましたね」「お前から学んだ」マリオが言った。「七年間で、一番大事な言葉を学んだ」 一月の第二週に、レインから年始の手紙が来た。エリナへ新年になった。今年も、手紙を書く。今年の冬に、また霜の石畳を一緒に歩く。それが、今年の始まりに確かなことだ。一つだけ、届けたいことがある
十二月になった。 冬が本格的になった。 ルシェムの霜が、厚くなった。 朝、窓を開けると、白い息が出た。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 今日も、冬の空気だった。 それが、当たり前になっていた。 当たり前になったことが、続いていることだと、今は知っていた。 レインが学院に帰って、一週間が経っていた。 手紙が届いた。 エリナへ 帰ってきた。 学院の石畳は、今日も霜が降りていた。朝、歩きながら、今年もエリナと一緒に歩いた、と思った。 それが、今年の霜の石畳の重みだと思う。来年も、一緒に歩く。その積み重ねが、続くことだと思っている。 一つだけ、今日感じたことを届けたい。 図書室に行った。いつもの席に座った。光がいつも通り入ってきた。でも、少し違った。 なぜ違うかを考えた。 エリナが、この光を見たから、かもしれない。一緒に見たから、自分一人で見る時も、一緒に見ている感じがする。 それが、続けることで起きることだと思う。 手紙を書く。 ――レイン―― エリナはレインの手紙を読んで、少しだけ目を閉じた。 一緒に見たから、自分一人で見る時も、一緒に見ている感じがする。 それが、続けることで起きること。 開けた。 レインへ「一緒に見たから、一人で見る時も一緒に見ている感じがする」という言葉を受け取りました。 私も、同じです。今朝、ルシェムの霜を見た時、学院の石畳を思い出しました。一緒に歩いたから、一人で見る霜の中に、あなたがいます。 それが、続けることで起きることですね。 来年の冬も、一緒に歩きます。約束しました。それが、今から楽しみです。 農地の年末報告を、来週ベルトとルナがまとめます。来年の計画が、少し見えてきそうです。
十一月になった。 冬が近づいていた。 朝の霜が、また降り始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 霜が降りていた。 薄い霜だった。 でも、毎年少しずつ厚くなっていく。 それが、冬の始まりの形だった。 霜を見るたびに、学院の石畳を思い出した。 今年も、その季節が来た。 十一月の初め、レインから手紙が来た。 エリナへ 今月の終わりか、来月の初めに行く。 今年も、霜の石畳を一緒に見たい。 学院の霜が、今年も降り始めた。朝、図書室に向かう廊下を歩きながら、今年もエリナが来ると思った。 それだけで、少し違う朝になった。 待っていてくれるか。 ――レイン―― エリナはレインの手紙を読んで、「それだけで、少し違う朝になった」という一行を少しだけ見た。 来ると思っただけで、朝が違う。 自分も、同じだった。 レインが来る時期が近づくと、朝の空気が少し違う感じがする。 レインへ 来月、来てください。待っています。今年も、一緒に霜の石畳を歩きたいです。「来ると思っただけで、少し違う朝になった」という言葉を受け取りました。私も、同じです。あなたが来る時 期が近づくと、いつもと少し違う感じがします。 農地の件、ベルトとルナが腐葉土を混ぜる試みを続けています。来月の報告書を、一緒に持っていきます。 ――エリナ―― 十一月の半ばに、ダリウスから手紙が来た。 エリナ・アッシュフォード殿へ 名誉回復の審議について、大きな進展があった。 先月、証言者が委員会で正式に証言した。アッシュフォード侯爵の改革案は、当時から正しい方向だったという内容だった。委員会は、その証言を正式な記録として採択した。 決定には、もう少し時間がかかる。でも、方向は決ま
九月になった。 秋が来た。 朝の空気が、夏とははっきり違う冷たさを持ち始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 今日は、秋の空気だった。 窓を開けるたびに、今日の変化を感じる習慣は、何年も続いていた。 変わらない習慣の中に、毎日少しずつ違う空気があった。 それが、続けることの形だと思っていた。 九月の最初の週、フィオナが長屋に来た。「一つ、伝えたいことがある」「どうぞ」「ダリウスから連絡が来た」「どんな内容ですか?」「父の名誉回復の審議について、進展があった。審議委員会が、アッシュフォード侯爵の件を正式に議題として取り上げた。次の会合で、具体的な審議に入るとのこと」 エリナは少しだけ止まった。 正式に議題として取り上げられた。「ダリウスが、教えてくれたんですね」「そう。定期報告の中に、この話が入っていた。重要だと思って、すぐに来た」「ありがとうございます」「礼はいらない。でも、一つだけ聞いていい?」「どうぞ」「どんな気持ち?」 エリナは少し考えた。「静かな気持ちです」「静か、というのは?」「大きな感情が来ると思っていた。でも、来なかった。静かだった。谁かがそうでした。当然のことが形になった、という感じがします」「当然のことが、形になってきた、か」「父が正しかったことは、もうわかっている。だから、名誉が回復されることは、当然のことだと思っています。でも、それが形になるまでに、時間がかかった。やっと、時間が追いついてきた」「時間が追いついてきた。それが、正確な言い方かもしれない」 セレーナに伝えた。「お母さん、また一つ、動きました」「名誉回復の件?」「はい。正式に議題として取り上げられました」 セレーナが手を止めた。 少しだけ、窓の外を見た。「そうかぁ」 セレー







