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8話 消毒液と、二度目の雨

last update publish date: 2026-08-03 18:00:34

 消毒液が完成したのは、ダリウスが去ってから十日後のことだった。

 材料は蒸留した酢と、特定の樹皮を煮出した液を合わせたものだ。酢の蒸留は最初の難関だった。この世界にも酢は存在するが、濃度が低く、薬として使えるレベルには程遠い。陶器の蒸留器を自作するのに三日かかり、蒸留の条件を探るのにさらに五日かかった。

 完成品を小瓶に入れて光に透かした。無色に近い、わずかに黄みがかった液体。匂いは鋭い。

 合格。

 エリナは小瓶に木の栓をして、棚に並べた。傷口に直接使える消毒液、石鹸では届かない深い部分の洗浄に使えるもの。クラウスの時のような感染症例が、これで一段階早く対処できるようになる。

 それから少し間を置いて、別のことを考えた。

 レインに見せると言った。

 でも場所がわからない。あの少年がいつまたルシェムに来るかも、来るかどうかも、わからない。

 エリナは栓をもう一度確認して、棚から目を離した。

 来たら見せる。それだけだ。

 レインが来たのは、その翌日だった。

 またしても、雨だった。

 今度は朝から降っていた。霧のような細かい雨が、町全体を灰色に包んでいた。エリナは薬草の仕分け作業を台所でしていて、戸口を叩く音を聞いた。

 マリオかナンシーだろうと思いながら開けた。

 違った。

 旅装束の少年が立っていた。前回より少し汚れている。靴底の麻紐は、新しいものに替わっていた。

「……修理したんだ」

 エリナが言った。自分でも、開口一番それを言うとは思っていなかった。

 レインが一瞬だけ目を細めた。

「した」

「よかった。入って」

 台所に通した。狭い部屋だ。棚に薬草が並び、壁に分類図が貼られ、隅に帳簿が積んである。貴族の屋敷の応接間とは正反対の空間だ。

 レインは部屋を一度見回してから、何も言わずに椅子に座った。この人は余計なことを言わない、とエリナは再確認した。狭い部屋だとか、貧しいとか、そういうことを顔に出さない。ただ、目だけが部屋の中をきちんと観察していた。

 エリナはお湯を沸かしながら言った。

「消毒液、できた」

「見せてくれ」

「お湯が沸いてから」

「なぜ」

「使い方を説明しながら見せた方が早いから。飲み物を出す間に準備する」

 レインが黙った。それを肯定と受け取って、エリナは作業を続けた。

 乾燥させたカモミール系の花を湯呑みに入れて、お湯を注ぐ。香草茶だ。砂糖はないが、花の自然な甘みがある。レインの前に置いた。

「飲める?」

「ありがとう」

 短いが、本物の言葉だとわかった。お世辞の質感がない。

 エリナは棚から消毒液の小瓶を取り出して、テーブルに置いた。

「これ。傷口の洗浄に使う液体。石鹸で洗えない深い傷や、処置の前に使う」

 レインが小瓶を手に取った。光に透かして、栓を外して匂いを嗅いだ。眉がわずかに動いた。

「強い匂いだ」

「酢を蒸留したものが入ってるから。匂いは強いけど、傷に使っても組織を大きく傷めない程度の濃度に調整してある」

「どうやって確認した?」

「ルナという子の手に少量つけて、翌日の状態を観察した。赤みも腫れもなかった」

「ルナ?」

「薬草を集めてくれている子。孤児で、私より薬草の知識が細かい」

 レインが小瓶を戻した。

「実際に傷に使ったことは」

「一例ある。先月、荷運びの男性が足に深い傷を作って三日後に発熱した。傷口を洗浄してこの液体で処置して、薬草の飲み薬を併用したら五日で回復した」

「魔法の治癒なしで」

「なしで」

 レインがしばらくテーブルを見ていた。それから顔を上げた。

「石鹸を学院に持ち帰って、魔法師に分析させた」

「わかった?」

「界面活性作用、という言葉が出た。魔法師たちは、この原理を魔法で再現できないか議論している」

 エリナはそれを聞いて、少し考えた。

「魔法で再現できたとしても、材料と手順がわかれば誰でも作れる石鹸の方が広く使える。魔法師がいない村にも届く」

「そう言ったら、一人の魔法師が怒った」

「魔法の価値を否定したと思ったの?」

「そう取る人間もいる」

 エリナは香草茶を一口飲んだ。

「否定したいわけじゃない。魔法がある人間には魔法を使えばいい。ない人間には別の方法がある。それだけのことだと思ってる」

 レインが少し目を細めた。

「合理的だ」

「前にも言ったね、それ」

「同じことを思うから、同じことを言う」

 エリナはそこで少し止まった。この人の言葉は無駄がない。だから逆に、言われた言葉の重さが妙に残る。

 雨が少し強くなった。屋根を打つ音が大きくなる。

 レインが窓の方を見た。

「今日はここで足止めになりそうだ」

「泊まる場所は?」

「宿を探すつもりだった」

「この雨では難しい。うちに泊まってもいい。母に話す」

 レインが少し驚いた顔をした。珍しい表情だ。

「いいのか」

「狭いけど、雨の中をうろうろさせるよりいい。合理的でしょう」

 レインがまた、口の端だけで笑った。

「……いつもそうやって全部、合理的で片付けるのか」

「合理的じゃないことの方が少ない」

「少ないが、ある、ということか」

 エリナは少し止まった。

「……何が言いたいの」

「別に」

 レインが香草茶を飲んだ。それ以上は言わなかった。エリナは何かを言い返そうとして、うまい言葉が見つからなかった。それも珍しいことだった。

 夕方、セレーナが仕事から戻ってきた。

 台所にレインが座っているのを見て、一瞬止まったが、すぐに柔らかい顔になった。

「お友達?」

「知り合い」エリナが答えた。「王立魔法学院の生徒。今日は宿が取れないから泊めたいんだけど」

 セレーナがレインを見た。レインが立ち上がって、きちんと頭を下げた。

「突然お邪魔して申し訳ありません。レイン・ソレイユと申します」

 セレーナが少し目を見開いた。礼儀正しい、という顔だ。

「もちろんよ。狭くて申し訳ないけど」

「十分です。ありがとうございます」

 夕食はエリナが作った。豆のスープとパン、それから薬草を使った簡単なおかず。材料は多くないが、組み合わせと火加減で補う。

 レインが一口食べて、動きを止めた。

「……美味しい」

「当たり前のことを言う」とエリナが返した。

 セレーナが小さく笑った。母がそんなふうに笑うのを、エリナは久しぶりに見た気がした。

 夜、母が寝てから、エリナとレインは台所で向かい合っていた。

 ランプの光だけがある。外はまだ雨が続いていた。

 エリナは切り出した。

「一つ聞いていい」

「どうぞ」

「クロヴェル家について、何か知ってることはある」

 レインの目が少し変わった。鋭くなった、というより、集中した感じだ。

「クロヴェルがどうかした」

「先週、息子のダリウスが来た。支援を申し出るという名目で」

「断ったか」

「体よく断った。でも次は別の手を使ってくる気がする。だから事前に知っておきたい」

 レインがしばらく黙った。ランプの火が揺れた。

「クロヴェル侯爵は、魔法省の副長官を兼任している。宮廷での発言力は大きい。ただ——」

 レインが少し間を置いた。

 「最近、国王陛下との距離が開いていると学院でも言われている。陛下が平民出身の魔法師を重用し始めたことを、クロヴェルは快く思っていない」

「それは知らなかった」

「表には出ない話だ。ダリウス本人は——」

 レインが少し考えるように目を伏せた。

 「学院での評判は悪くない。父親のやり方とは少し違うと言う者もいる。ただ、父親に逆らえるかどうかは別の話だ」

 エリナはその情報を頭に入れた。

 国王陛下とクロヴェルの距離が開いている。平民出身の魔法師を重用している。

 これは使える情報だ。

「ありがとう」

「礼はいい」とレインが言った。

「ただ——」

 少し止まった。続きを選んでいる感じだ。

「無理をするな」

 エリナが顔を上げた。

「七歳で、一人で、クロヴェル家を相手にしようとしている」

 レインの声は平坦だった。でも平坦さの下に、何かがあった。

 「仲間がいても、限界がある。無理をして潰れるのは合理的じゃない」

 エリナはしばらくレインの顔を見た。

 この人は今、心配をしている。そういう顔だ。でも心配という言葉を使わない。合理的じゃない、という言葉に変換して言った。

 なぜかそれが、ひどく自分に似ていると思った。

「わかってる」とエリナは答えた。

「無理はしない。でも止まりもしない」

「それを無理という」

「進む速さを調整するだけ。止まることとは違う」

 レインが少し黙ってから、言った。

「……頑固だな」

「よく言われる」

「誰に」

「マリオに」

「そうか」

 また沈黙があった。でも不快じゃない。雨の音が続く。ランプが揺れる。

 エリナはふと思った。この静かな時間が、妙に落ち着くのはなぜだろう。

 考えて、すぐに結論を出した。

 余計なことを言わない人間と一緒にいると、自分も余計なことを考えなくて済むから。効率がいい。

 それだけのことだ。

 それだけのことだ、とエリナは二度、心の中で繰り返した。

 翌朝、雨が上がった。

 レインは朝食を食べてから立つ準備をした。荷物は少ない。動作に無駄がない。

 戸口で振り返った。

「消毒液、五個もらえるか」

「四十ルシェ」

「払う」

 エリナは棚から小瓶を五個取り出して、布に包んだ。レインが銀貨を置いた。数を確認せずに受け取った。この人が誤魔化すとは思えなかった。

 レインが布包みを鞄に入れた。それから少し間があった。

「また来る」

 前回と同じ言葉だった。でも今回は少し違う言い方だった。前回は「来るかもしれない」だった。今回は「来る」だった。

 エリナはその違いに気づいたが、特に何も言わなかった。

「消毒液の次は何を作る」

「膏薬。それから、もう少し濃度の高い解熱薬」

「見せてくれ」

「できたら売る」

「買う」

 それだけ言って、レインは歩き出した。

 今度は振り返らなかった。

 エリナは戸口に立ったまま、その背中が路地の角を曲がって見えなくなるまで見ていた。

 なぜ見ていたのか。

 自問して、答えが出なかった。

 珍しいことだった。エリナはたいていのことに、すぐ答えが出る。でも今朝の自分の行動には、合理的な説明がつかなかった。

 ……まあいい。

 結論を保留にして、台所に戻った。膏薬の材料を並べながら、頭の中で今日の作業を組み立て始めた。

 でも不思議と、作業の端っこに、路地の角の映像が残っていた。

 薄汚れた旅装束と、小さな革鞄と、新しい麻紐で直した靴底。

 エリナはそれを頭から追い出そうとして、追い出せなかった。

 効率が悪い。

 そう思いながら、それでも少し、口の端が上がっていた。

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